物語の結末はいつもHappy End

ビジネスオンがメインだけどオフも有意義に過ごすことをコンセプトにしています

広告

不登校について

プロローグ

知り合いのお嬢さんが前年度の3学期から不登校になり、最終的には3月末で退学しました。彼女がなぜ不登校になったのかは、本人と親の間での温かいやり取りを見守るとして、不登校になった子どもに対して、大人たちはどのように接すればいいのか。特に大人の方が精神的に穏やかでなくなってしまうこともあるだろうから、その心構えを考えてみたいと思います。そしてそれは子ども時代特有のものではないのではないでしょうか。よく親でもない人が「行かなくてもいい」とか「行かない選択もあり」と、慰めの言葉をかけてくることもあるでしょうけど、正直な話、その子の未来を考えた発言とは思えません。

僕の場合

まずは僕がどういう子ども時代だったのかということを白状しておきましょう。
学校では優等生だったと思いますが、それは先生や拘束に反発するような態度を出すほど強い心を持っていなかったからで、基本的に学校は嫌いな場所でした。勉強はできるけど運動が苦手で本が好き。本が好きな子どもというのは本がある場所が楽園なわけで、それは学校ではないことは自分でも明らかであったと思います。でも、嫌いなりに学校には行っていたわけですが、その理由は2つあります。ひとつは母親が学校に行かないことに対してうるさかったこと。もうひとつは、学校に行って勉強しないと親の跡を継がなければならなかったからです。つまり、2つめの理由については、自分の望む環境を手に入れるため、または自分が望まない環境から這い出るためには勉強するしかなかったのです。これが僕が不登校にならなかった理由です。積極的に学校に行く理由ではなく、どちらかというと消極的な理由で学校に行ってました。これについて、今どのように考えているかというと、「中学、高校と我慢して行ってよかった」です。僕のように不登校にならなかった人間でさえ、学校は「我慢」しなければならない場所でした。

不登校の原因

僕のように消極的な学校生活を、自分の心をもっと打ち明けると「不登校になるほど嫌な場所ではなかった」ということでしょう。しかし、人の心は十人十色です。「不登校=学校は嫌な場所」という方程式が正解なのかも考えなければなりません。もしかしたら「不登校=学校以外の場所を求めている」のかもしれません。まずは「不登校=学校は嫌な場所」を前提としてみましょう。
不登校=学校は嫌な場所」である原因は、いじめ、友人や先生との人間関係、授業についていけない、学校のある場所が嫌い、そして心の病気etc.もっとあるのかもしれませんが、これらのひとつ、またはいくつかの組み合わせで学校へ行くことができなくなるのだと思います。不登校の原因が「いじめ」なら、「行かない」の一択で良いですよね。いじめる側に対して積極的に働きかけて、いじめを撲滅していくのが理想ですけど、正直な話、先生や学校の隠蔽体質でどれだけの子どもたちが犠牲になったことか。それを考えると、まずは積極的に不登校にしてしまう。行って解決するのではなく、解決してから行けばいいと思います。

さて、子どもが不登校になると、周囲の大人たちはこの原因がなんだろうと想像を始めます。そして、「恐る恐る」だったり、人によっては「しっかり」と子どもと向き合って話を聴くことでしょう。もしかすると子どもは、今の自分の気持ちをボヤーッと伝えてくるかもしれません。もしかすると何もしゃべらないかもしれません。何かを伝えてくれても、それを聴いた大人の先入観や固定観念で本人の気持ちや原因と違う方向にアドバイスしてしまうかもしれません。
「しれません」が多くなりました。つまり、これが「恐る恐る」であったり、「しっかりと向き合うことの限界」だったりするのです。そして話す子どもたちも、その子の個性によって「恐る恐る」だったり、「しっかり」と伝えてくることでしょう。私が考えるのに、やはりそれを聴く側の大人たちは「予想を超えた話をするかもしれない」と心の準備をしておいたほうがいいと思います。これは、僕が従業員から「折り入って話があります」と声をかけられた時にいつもしている心の準備です。「大人と子どもは違いませんか?」という方もいらっしゃるかもしれませんが、それは「固定観念」や「先入観」です。それを取り去って話をすることで、従業員が起こす事件事故を未然に防いできました。そこだけは、子どもたちの不登校の相談に応用ができることなのではないかと思います。

不登校=学校以外の場所を求めている

ここに行き着くのに実は「いじめ、友人や先生との人間関係、授業についていけない、学校のある場所が嫌い、そして心の病気」が原因なのは同じだと思いますが、本人の意思の表出の仕方として「別なものを求める」ケースです。こういうのって心理学的にはきちんとした「名前」がついてるのだと思いますが、身近に接する大人たちの全てが心理学の深い知識を持っているわけではありません。ということは、専門家に相談することも当然必要なことだと思いますが、まずは子どもたちの心を開いてあげることに注力すべきで、そのために「 不登校=学校以外の場所を求めている」という仮説を前提にしてみてはいかがででしょうかという提案です。
僕自身、不登校ではなかったものの空想癖のある少年で、よく「見つからない楽園」を心の中に探していたように思います。もしかすると、僕の職歴の多さは「見つからない楽園」探しなのかもしれません。「かもしれません」と書くほどに自分の心を真正面から捉えるのは51歳になっても難しいことなのです。ましてや6歳から15歳前後の子どもたちに、自分と向き合い心を大人たちの理解しやすいように表出するのは難しいことだと思います。
さて、「学校以外の場所を求めている」というのをもっと積極的な言葉に置き換えましょう。
「発見の旅に出ている」としましょう。これは現実逃避ではなく、向き合うべき現実を探しに行っているのです。こうすることで、不登校の子どもたちと向き合っている大人たちは手を差し伸べやすくなります。
例えば、高校卒業という学歴が大事というのであれば通信制の高校を受ければいいと思います。高校生活が人間関係の構築方法=コミュニケーション方法を学ぶ場だとすれば、違う場所を一緒に探せばいいと思います。旅ですから地図を用意してあげたり、時刻表を用意してあげたり、もしくはそういう旅の道具の集め方を教えてあげればいいと思います。

周囲の大人たちの心構え

心のこもったアドバイス、無責任、心を傷つけることは全部がどちらに転ぶのか、子どもたちの受け止め方次第なので、とても難しいことです。で、私がなぜアドバイスを書いているかいうと、実は「児童から少年少女心理」と「高齢者の心理」はお隣様の関係にあるからです。つまり…高齢者も不登校になります。そしてそのときには、高齢者の心理に寄り添ってきちんと不登校心理を満たし、かつ安全で安心な環境を築いておくことが大切です。プロローグに書いた「行かない選択もあり」が無責任といっているのはここに理由があります。例えば、デイサービスに行く予定の日に行くことを拒否した高齢者様が自宅で一人で亡くなっていたら誰の責任でしょう?誰の責任か後から議論するとして「行かない選択もあり」とした人が無責任であることは確定なのです。つまり、高齢者心理の実状を鑑みると、単に「行かなくても良い」ではなく「安心して過ごせる代案」を用意しなければなりません。話を児童心理少年少女心理に戻しますが、周囲の大人たちが「学校に行かない代案」を一緒に考えてあげなければならない。そのための第一歩が子どもの心を受け入れて寄り添ってあげることです。

人生は自分の居場所を探す旅

というのは、永遠のテーマなのでしょう。僕みたいに抱えているのが母親だけですと身軽に構えていますが、大きな家族を抱えていると我慢するものが増えてくるものです。例えば、僕に大学生の子どもがいるとして、今の介護事業所の給料では学費なんて出せてあげられません。そうやって、何かを得るためにどうするのか、どこが居心地の良い場所なのか、何が才能を開くことになるのかを探し続けるのが人生であれば、若いうちの4年、5年が迷走していても問題ないことがわかります。先行している人に追いつくことはできないかもしれませんが、そもそも追いつくことだけに価値があるのか?と、考えてあげることにしましょう。

エピローグ

結論出ませんよね。今日書いたのは、不登校の子どもに接する僕たちの心構えと、不登校は子ども世代だけの問題ではなく高齢者になるまで起こりうることなのだから全世代で表出してくる問題であるということです。もう一度、書いておきます。
先行している人には追いつけないかもしれませんが、そもそも追いつくことだけに価値があるのか考えてみましょう。

では、また次回!

広告