物語の結末はいつもHappy End

仕事に関して大切にしていることを書いていこうと思います。それと、少しの季節と、少しの写真と、少しの北九州。

小林麻央さんの悲報に接し

心からご冥福をお祈りします。
小林麻央さんの悲報については、複雑な思いがある。吐露しておかないと私の精神衛生上良くなさそうなので、ブログに綴っておこうと思った。
伴侶の市川海老蔵という男は、立派な血筋であると思うが、男として友人に持ちたいタイプかというと、そうでもない。「立派」という言葉からかなりかけ離れた位置にいる人間だと思っている。しかし、小林麻央さんのガンが知れ渡るに連れて、男っぷりを上げてきた。もちろん愚かな過去を消せるものではないのだが、未来に向いて市川海老蔵は評価を上げていくことができる男なんだと思った。それは小林麻央さんを失うという苦しみの代償に手に入れたものなのか。そういう気がしてならない。言葉が汚くなってしまったが、言い換えれば小林麻央さんが彼に素晴らしい生き方をすることに導いてくれたと思うのだ。本当に良い伴侶を得たものだと思う。
市川海老蔵は悲しみの記者会見の中、何度も涙を拭った。泣いて良いのだ。我慢することが立派なのではない。乗り越えることが立派なのではない。ありのままの姿をさらけ出し、それでも他の人から受け入れられることように普段から生きていくことが立派なのだと思う。気が済むで泣けばいいと慰める人もいるだろう。励ます人のことを悪くいうつもりはないが、これから先の人生で、こういう悲しみに気が済むことなんてないのだ。無責任な励ましではないだろうか。「かける言葉もなく、君と同じ苦しみの中にいる。」これを市川海老蔵に捧げたい。
生と死は人生の光と陰。光が強ければ強いほど、影はその暗さを増すものだ。陰を薄めるためは陰の中に入るしかない。そこは光がささない世界ということだ。光が強ければ強いほど影は濃く広く人の心を覆う。小林麻央さんを失った喪失感とはそういうことだ。残されたものは、去っていった者のことを忘れてはならない。記憶に留めておくことが供養だと思う。これから先も、同じ病で多くの人が倒れていくことだろう。人は病で死ぬのではない。人は寿命が尽きることで死ぬのだ。大切な人が倒れたことを、決して忘れないこと。死を乗り越えるのではなく、寄り添って生きていく。それが供養だと思う。
最後に、小林麻央さんのことに対するマスコミの報道姿勢について考えることがある。しつこく追いかけスクープを狙い。コメントを取ろうとし。市川海老蔵の言葉を待つまでのもなく、亡くなった報道が流れた。市川海老蔵は芸能人だ。過去にお騒がせの話題にも事欠かなかった。だかといって、彼の思いを、悲しみを無視するような姿勢で良かったのかと疑問を持たざるを得ない。そのマスコミに立ち向かって記者会見を開いたから男を上げたと言っても良い。気に入らないマスコミのためではなく、小林麻央さんを心の支えにしていた人に対して記者会見を開いた。また、小林麻央さんが病と闘っている姿に勇気づけられている人がいるから報道していいのか。病と闘っている姿をさらけ出すのは相当に辛いものだ。ガン患者に簡単にステージを聞かないでほしい。ガンのステージは当事者にとって絶望を連想させるものだ。その絶望を乗り越えて闘わなければならない。5年内生存率15%だったとしよう。それは15%の確率で生き残るのではない。85%の確率で待つのは死だ。勇気を奮い立たせて、明るい未来を信じて闘っていくことだと思う。本当の意味での聖戦なのかもしれない。それを支える家族も聖戦の最前線に立っていると言える。それを考えると日本のマスコミには残念な気持ちを禁じ得ない。
小林麻央さんに比べれば私のガンは風邪をひいたぐらいのものだが、それでも不安と闘い未来を信じて生きていかなければならないのだ。日々を丁寧に生きよう。それが旅立った人への餞なのだと思う。